家庭教師に習っていることは秘密だった
家庭教師の先生には中学から高校受験まで教えて頂いていました。
でも、そのことをいちいち友だちには言わなかったし、10代での友達との話題にも上りませんでした。
大学に入ってからはそのことはほとんど意識に上らず、やがて記憶から遠のいていました。
後年話の流れで話題に上った時に、人から聞かれたら、中学から家庭教師についていたと答えたことはあります。
でも私が今日こうやって好きな英語で教職についていられるきっかけを作ってくれたのは、その家庭教師の方だと思っています。
数年前、講師をしている大学でよくお話をする先生(英語の先生ではありません)で、小学生の息子さんがいらっしゃる方に、「受験の時、一人で勉強していたのですか?」と聞かれました。
それで「いいえ、家庭教師の先生について、教えてもらっていました。」と答えました。
その方は東京在住で、かなり裕福な方だということは知っていましたが、私は自分の経験から家庭教師をお勧めしました。
驚いたことに翌週、お会いしたら、早速家庭教師を探して、頼んでいました。すでに二つの塾にも行っていたことをその時知りました。結局、3か所で勉強した甲斐あって、息子さんは都内有数の私立ベスト3に入る、中高一貫校に見事入学しました。
でも、塾は周りのクラスメートがお互いに知っているから、隠すもなにもないでしょうけど、その先生は息子さんが家庭教師についていることは周りには言ってなかったと思います。
塾にも通ってみたけれど…
中学生の時に数学が苦手だった私は近所の2、3ヶ所の塾に通ってみました。でも教室の授業と同じで、どんどん授業は進み、なぜこういう数式でこういう答えになるのか、学校の授業と同じで、相変わらず分かりませんでした。
周りの友達たちは分かっているようで、授業はどんどん進み、その流れを止めてまで質問する勇気はありませんでした。
結局、学校の授業でよく分からないのに、また、集団の教室に通っても、結果は同じだと当時も、今も思っています。
でも誰かに丁寧に勉強を教えて欲しいという気持ちは強く、その後、母にお願いして、家庭教師の先生を付けてもらいました。
その方は横浜国大の大学生で、時々日にちの都合がつかないと、早稲田の学生のボーイフレンドが代役で来ることがありました。今、年月が経って思い起こすと、英語は私の方が出来たかもしれません。
20歳前後の方ですから、その方と経験を積んだ今の私と比較するのは無理があるのは分かっていますが。でもその方は、受験用の問題を出して丁寧に解説してくれたり、どういう大学を受験すればいいかなど相談に乗ってくれました。
また家庭教師のレッスンが好きな私に予備校の模試の受付票を持ってきてくれました。
授業は家庭教師でじっくりと、そして今の自分の現在地を全国的なレベルで測る方法としては、予備校の模試を数回でいいので、受ければいいと思います。
集団の教室で教えることの限界
今、教える側に立っている私は集団の教室で教えることの限界を感じています。
最近ではレベル別授業も増えてきましたが、多くは様々なレベルの学生さんが混在している授業なので、生徒さんのレベルに合わせた一対一のレッスンのような効果が分かり難いものになっています。
一人一人にどのくらい授業が理解してもらえているのかが、見えにくいのです。小テストを数回行ってよく出来る学生さんが期末テストではあまりいい点を取れない、あるいは授業に積極的に参加して発言もするし、当てられると答えられるのに、テストになるといい点が取れないなど、よくある例です。授業が終わった後で、個人的に分からないところを聞きに来てくれると嬉しいです。
説明すると納得して、帰って行きます。
家庭教師の存在意義
家庭教師での今までの経験で印象深いのは、家庭教師を引き受けて、週2回で2ヶ月目くらいで中間テストがあった時、いきなりクラスで1番になった生徒さんがいました。
また、初回の授業で、長いこと分からなかった文法項目が
私の説明で、暗闇に射す光のごとく分かり、感動しているのが口には出さないけれど、目に見えてこちらに分かった時です。この瞬間瞬間を目指して、私は家庭教師をしています。
ただ誰にでも波があるので、そのままずっと受験までその状態を保つのは、無理があります。
生徒さんのやる気の高低を時には、喝(?)を入れ、良くできた時は適度に褒め(あまり褒めすぎると効果なし)、生徒さんのやる気の高低を調整しつつ、授業をしっかりと行っていきます。
生徒さんの好不調の波をコントロールしながら、ゴールに導いていくのです。ここに家庭教師の存在意義があります。